今、日本は谷間の時代を歩いている
ジーコジャパンを見てきた多くの人たちはこう思っているのではないだろうか?
「ドーハやフランスW杯のときと比べると、今の代表には覇気がない。泥臭さや必死さが伝わってこない。」
確かに今の日本代表は昔よりも優れた技術を持った選手が多いが、メンタル的な面において、見ている人にも感じられるほどの気迫という意味では物足りなさを感じてしまう。
この違いはどこから生まれたのだろうか?
選手の育った環境を思いえがき、海賊ひでなりに考えてみた。
思い起こせば日本に初めてのプロサッカーリーグ「Jリーグ」が生まれたのは1993年のこと。そして「ドーハの悲劇」があったのも1993年である。
プロ創設と共に歩んだドーハ・フランスW杯世代
ドーハ世代・フランスW杯世代の一部の選手は、もともと社会人クラブ、つまりアマチュアでやっていた選手たちだ。サッカー以外に仕事を持ち、日本がW杯に出場できるなんてことを遠い夢のように感じていた世代である。
それだけに、『プロとしてサッカーが出来る喜び』を誰よりも強く感じていたのは想像に難しくない。彼らをはその想いをがむしゃらにサッカーに反映させ、泥臭さ・ハングリーさを生み出していたのだろう。
では、プロ創設の時代を歩んできたドーハ世代とは逆に、遥か100年以上も昔からサッカーの歴史を紡いできた欧州や南米などの強国はどうだろうか?
勝つことが当たり前の環境で育った強国の選手
生まれたときからサッカーが側にあり、W杯に出場するのは当たり前、もしも出場できなければ大騒動、少年時代からプロサッカー選手の背中を追いかけて育つのが欧州や南米の選手たちだ。「サッカーで他の国に負けること」がどれほど自分たちのプライドを傷付けることか、また国民を落胆させることなのか、彼らは自らの体験で知っているのだ。
さて、では今回のジーコジャパン世代はというと・・・
『プロ』という存在に実感を見出せない谷間の世代
日本にJリーグが出来た1993年、ジーコジャパンの中心世代は、中学生もしくは高校生だった。ひとつのアマチュアスポーツに過ぎなかったサッカーが、突然野球と肩を並べるプロスポーツへと変化した。
サッカーを続けていこうか悩むモラトリアムの時期に、彼らの目の前に忽然と現れたプロという選択肢。彼らはその流れに乗ってプロ選手になることを選んだ。
もちろん相当の努力があって成し遂げたことではあるが、アマチュアで仕事と両立をする苦労を背負うことなくプロの世界に入れた彼らは、非常に幸運だったといえる。
しかし、棚からぼた餅的にプロという道を手に入れた彼らにとってプロ意識の実感は、ドーハ世代に比べれば薄かったのではないか。
さらに、上記の欧州のような「サッカーが当たり前に根付いた環境」で育ったわけでもない。むしろプロ野球という巨大スポーツの影に隠れたマイナースポーツとして育ってきている。急激に育ったサッカーの存在感には、青春時代にあった彼らの認識力が追いつかなかったのではないだろうか。
プロができた喜びを噛みしめる新人でもない。
サッカーは勝って当たり前、というベテラン環境で育ったわけでもない。
その姿はさながら、プロサッカーという会社に入社して3,4年目の社会人のごとく、目標やモチベーションをどう設定していいか迷ってしまっている状態に思えてくる。
長い長い日本サッカーという流れの中で見ると、今の世代の選手たちはまさに歴史の谷間を歩いているのではないだろうか。ジーコが指摘する『プロ意識の欠如』の背景には、日本サッカーの思春期とも言うべき時代があるのだ。
だからこそ、それを変えていくには海外への挑戦などを含め、今までの自分が置かれていた環境をガラッと変えてサッカーに取り組むことが重要になってくると思う。


