1.プロ意識の欠如
2.成熟していない
3.フィジカルの弱さ
海賊ひでがここで最も注目したいのが、
1.「プロ意識の欠如」である。
日本代表キャンプ地であるボンへ練習を見学に行った人なら知っているかもしれないが、練習は非常に和気あいあいとした雰囲気だった。ウォーミングアップや練習後に、同じクラブ同士・ワールドユース仲間などで固まり、常に同じメンバーの仲良しグループが出来ていた。(ちなみに中田はいつも一人ぼっち)
なんというか、さながらドイツに修学旅行に来た高校生のようだった。
とてもジーコが掲げた「日本代表ベスト4」という共通目的に対し、ベクトルを一つにしたプロ集団には見えなかった。
そんな意識の違いはさまざまなところに現れてくる。
例えばW杯に行われた日本vsドイツのテストマッチだ。結果は2−2の引き分けだったが、この試合の日本代表は「もしかしたら結構イケるんじゃないか」と期待させるほどのパフォーマンスを発揮し、ドイツは「もしかしたらグループリーグ敗退じゃないか」と落胆させるほどのプレーをしてしまった。
この試合をスタンドで観戦していたサポーターも、惜しみない拍手を我らが代表選手に送りたかったことだろう。しかし、彼らはスタンド挨拶には来なかった。そしてなぜか内容の悪かったドイツ代表が、全員揃ってスタンドに挨拶に出向いているではないか。
人に聞いたところによれば、マルタ戦・ボスニアヘルツェゴビナ戦でも同様だったと言う。彼らは遠路はるばる多大なお金を費やしてやってきたサポーターに、「ありがとう」も言うことが出来ないのだろうか。自分たちがサッカーをしてお金をもらえるのは多くのサポーターやファンが支えてくれているからであり、ファンが少ないアマチュアスポーツにはない幸せを噛みしめていることを、まるで自覚していないのではないだろうか。
スタンド挨拶の件だけではない。マスコミへの取材対応もバラックを始めとしたドイツ代表は、試合が悪かったにも関わらず非常に紳士的だった。これを「プロ意識の違い」と呼ぶのではないだろうか。
(ただし一部、駒野のように背筋をピンッと張ってインタビューに答える、心あたたまる選手がいたことを付け加えておく)

それでもW杯本戦ではさすがにスタンド挨拶にやってきた。ただし7〜8人である。この際、200歩ほど譲ってスタンド挨拶に来ないことには目をつぶろう。もしかしたらサポーターに対する不信感など、そこには個々の想いがあるのかもしれない。
だが、「同じチームにあいさつに来る選手と来ない選手がいる」とは一体どういうことだろうか。誰かが一声かけて連れてくればすむことだろうに。
修学旅行に来たかのような烏合の衆であったこと、
チームは既にバラバラであったこと、
同じ目的のために団結できる大人のチームではなかったことなど、
あらゆることがそのシーンに凝縮されてしまった。僕は全ての試合を観戦したわけではないが、こんな醜態をさらしたチームは日本ぐらいのものだった。
そんな意識の低い子供たちが、世界中からプライドをかけて集まった強豪とのサバイバルに生き残れるはずがない。
ところで話は飛ぶが、2002年W杯日本代表の模様を収録した「6月の勝利の歌を忘れない」は僕のお気に入りのDVDだ。ロッカールームにもカメラが入り、日本代表の素顔が垣間見えるドキュメンタリーが多くのサッカーファンの感動を呼んだ。
しかし今回、ジーコジャパンのロッカールームにはカメラが入れなかったらしい。その理由は想像になってしまうが、、、あまり絵にはならない雰囲気だったのではないだろうか。トルシエが許可したことを、ジーコが拒否するとはなんとなく考えにくい。
今にして思えば、あの日本代表DVDの雰囲気は中山雅史がいてこそ成り立つものだったように思う。底抜けに明るいキャラでプールにも率先してダイブした。かと思えば、試合に出なかったサブ組で行われるフィジカルトレーニングで先頭を切って全員を引っ張っていく。中山が日本代表に、明るさと厳しさの両方を与えていたのは明白だった。
しかし、ジーコジャパンには中山のような存在はいなかった。代表メンバーが24歳〜30歳という狭い年齢幅の中で、居心地が良いだけの鎖国空間を作ってしまっていたように思う。
脂の乗った世代はたしかに戦いの中心となるだろう。しかしチームのポテンシャルを引き出すには、メインの存在だけでは成り立たない。
自分の背中を虎視眈々と狙ってくる若手に対して危機感をつのらせ、高いプロ意識と存在感を誇るベテランに畏敬の念を抱く。
世代をバランスよく配置することは、ジェネレーションギャップによる『よそよそしさと緊張感』をもたらすことでもあるのだ。
そんなメンタル面への味付けも、ジーコジャパンに足りなかったものではないかと僕は考えている。


